超大型台風ヨランダの爪跡を訪ねて。被災地の暮らしとソーラーランタン〜前編

2015.11.06 Field Report

2013年11月、フィリピンを襲った超大型台風ヨランダ。パナソニックは災害復興支援のために、フィリピン政府・社会福祉開発省(DSWD)にソーラーランタン1002台を寄贈しました。被災から2年が経った現地の様子をプロジェクトメンバーが2回にわたってレポートします。前編は、ヨランダの甚大な被害について、被災者の証言を元にお伝えします。

プロジェクトメンバーの次田です。

9月上旬、緊急支援として寄贈したソーラーランタンが、現在、被災者の生活にどのように役立っているのかを確かめに、フィリピン中部レイテ島にあるタクロバン市を訪れました。

レイテ島を含む東ヴィサヤ諸島は2年前、6000人以上の死者と114万棟の家屋損壊をもたらした超大型台風ヨランダの直撃を受けた地域です。中でもタクロバン市は、湾の奥まった所に位置しており、高潮による最も大きな被害を受けたといわれています。

事前情報では、街の復興も進み、被災者が暮らす仮設住宅(バンクハウス)には既に電気が通っているということでした。ひょっとしたら今はもう誰もソーラーランタンを使っていないのではないか...。一抹の不安を抱えながらの訪問でした。

いまだ多くの被災者が生活する仮設住宅

今回訪れたのは、被災者を収容する最大規模の仮設住宅キャンプであるIPIバンクハウス。タクロバン市の中心部から車で南東に10分ほど行った場所にあるこの仮設住宅の一群は、フィリピンの製薬会社が所有していた土地を政府が無償で借り受けて建設され、台風上陸の3ヶ月後に最初の被災者の受け入れを開始しました。最大時には528世帯が生活。現在は、442世帯が暮らしていました。

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長屋状の仮設住宅が"目抜き通り"の左右に整然と立ち並び、電線も目に入る。日が暮れると屋内外の電灯が点き、キャンプには一見十分な明かりがあるように見えた。

部屋は家族の人数によって割り振られ、5人までなら18㎡の部屋を一部屋、6人以上なら続きの二部屋が割当られます。住宅は木の壁にトタン屋根のシンプルなもので、恐らく暑さを凌ぐためでしょう、ほとんどの家の窓や玄関の扉は開け放たれていました。そして各部屋の天井には、裸のバルブではありますが、電球型蛍光灯が一灯ずつ設置されており、夜になると部屋を照らします。外にも街灯が設置され、日が暮れてもキャンプ内を人が行き交い、活気に満ちた「街」が形成されている印象を受けました。

そんな現在のキャンプの様子からは、ヨランダの威力も、被災直後の様子もなかなかイメージすることができません。そもそも彼らはどのような被害を受けたのでしょうか?

「ヤシの木にしがみつき、息を止めて必死に波に耐えた」

ヨランダがもたらした被害の実態を知るために、翌朝海沿いに向かいました。車で走っていると見えてきたのは、雑草の繁みの向こうに顔をのぞかせている鉄筋の枠組み。どうやら以前街があった場所のようで、車を降りて近づくと、あたり一帯に基礎しか残っていない住居跡が広がっています。かろうじて壁が残っているのは、病院やホテルといった大規模な建物ぐらいで、それでも屋根の一部や壁は吹き飛んでおり、当然現在は使用されていません。

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ヨランダによる高潮によって破壊された家の残骸。かろうじて骨組みが残る。

しばらく進むと、通り沿いに掘っ建て小屋が立ち並ぶ地区が現れました。以前この場所にあった家々はすべて高潮で押し流されたはずです。ある小屋の軒先で大工仕事をしていた男性に話しかけてみると、これらは被災後に建て直されたものとのこと。当時の様子を静かに語り始めた彼は、ヨランダが上陸した時に自宅に残っていたと言います。

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ヤシの木にしがみついて生き延びたと語る男性の目は次第に潤み、涙声に。彼の兄弟たちも自宅でヨランダの直撃を受けたと言う。ただ、幸運にも家族全員が無事だった。

「普段より大型の台風とは聞いていたが、そこまで甚大な被害をもたらすものではないだろうと考えていました。幼子を抱えた妻は、念のため避難所に避難させましたが、自分は財産を守るために自宅に残りました。ただ、高潮という聞きなれない言葉ではなく、高波が来ると聞いていたら自分も避難したかもしれません」

ヨランダでは高潮により海面が上昇したことに加え、そこに高波が加わったことで津波と同程度の破壊力を持った波が海岸沿いを襲いました。そして、高潮が何を意味するのかに男性が気づいた時にはもう手遅れでした。押し寄せる波に流されないようにヤシの木にしがみつき、必死に耐えました。暴風雨が吹き荒れ、目を開けてあたりの様子を伺うことすらできません。波が彼に覆いかぶさってくるのを、息を止め、何度も凌いだと言います。

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彼の自宅があったという場所に連れて行ってもらうと、堤防の一部だったコンクリートの塊が鎮座しており、自宅は跡形もありませんでした。

「避難所の小学校を高波が襲い、無我夢中で脱出しました」

一方、避難所ですら安全とは言い切れませんでした。

IPIバンクハウスで出会ったジーナさんという女性は、前日の夜に子ども二人と共に避難所に指定された近くの小学校に避難しました。彼女も空港近くの海岸沿いに住んでいたそうです。しかしヨランダが上陸した時、身を寄せていた小学校の1階部分にまで高波が押し寄せてきたのです。

「海水が瞬く間に天井まで満ちてきて、私たちは中に取り残されました。私はなんとか窓ガラスを破って部屋から脱出しましたが、子ども2人を部屋に置き去りにしてしまいました。私だけで子どもたちを助け出すことはできなかった。そうしようとすれば、3人とも死んでいたでしょう。水が引いた時、長女は奇跡的に生き延びていました。でも、まだ赤ん坊だったもう一人の子どもは亡くなっていました」

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被災後に生まれた赤ん坊をあやしながら、長女ジャマイカちゃんの勉強をみるジーナさん。

これまで年に2度程度ではあるものの、東日本大震災の復興にボランティアとして携わりながら東北の被災者の話を聞いてきた私は、ヨランダの被害状況を聞く度に、津波に襲われた被災地の状況が重なりました。高潮と津波では発生のメカニズムが異なりますが、ヨランダによる高潮は、東日本大震災での津波のように、タクロバンの街の多くを根こそぎ海に押し流してしまったのです。人々が瓦礫にしがみつき九死に一生を得、安全だと思った避難所で人々が亡くなる。これも東北の被災地で聞いた話です。

避難所が被災したジーナさんは夫と再会し、近くの大学に身を寄せます。しかしその大学は避難所に指定されていなかったため、一晩過ごしただけで離れなければなりませんでした。彼女の一家は自宅のあった場所に戻り、野宿生活を始めました。近くの破壊された建物から木材を拾ってきて、腰を下ろせるベンチは自作しました。しかし、被災から一ヶ月以上が経ち、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)から提供されたテントを手に入れるまで、雨つゆを凌ぐことはできませんでした。

「雨が降ると私たちは、ただびしょ濡れになるしかありませんでした」

後編に続く

tsugita.jpgパナソニック株式会社
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次田 寿生